「これでよし。」
救急箱をパタンと閉じて紫龍がこちらに笑顔を向けた。
「……ありがとう。」
氷河もつられて伏目がちに微笑み返した。
消毒液の匂いがたちこめる医務室で氷河は紫龍に包帯を交換してもらっていた。
過去に何度か目を患ったことのある彼はこういうことには手馴れているうえに面倒見が良いのでよく氷河の目のことを気遣ってくれる。
今日も包帯の解けかかっている状態を見てこれはいかんと大丈夫だと告げる氷河を無理やり引きずって医務室に連れ込んだ。
「ちゃんと自分で消毒してるのか。いくら傷が浅いからって、そのまま放って置いたら膿んで失明しかねない。」
紫龍は呆れたようにもう何度も言った忠告を氷河に告げた。
「……ちゃんとしてる。」
「うそだな。」
ぴしゃりと言い返されて氷河は口をつぐんでしまった。
実際、紫龍がこうして引きずってこない限り氷河は何もしようとはしていなかった。
氷河が左目に受けた傷はポセイドン神殿で受けたものだった。
出血は酷かったようだが、失明までには至らず時が経てば必ず回復していくものだそうだ。
しかし、あれから随分と時間が経ったが氷河の左目は一向に回復する兆しが見えない。
心配した紫龍が問いただしたところ、なんと氷河は傷口をずっと放置したままだったという。
無理やり引き剥がした包帯の下からはあろうことか自ら付けたと思われる新しい傷口さえ見られた。
敵から受けた傷などさっさと治して修行に明け暮れる今までの氷河の姿からは想像もできない彼に不審を抱いた紫龍はその場に居合わせた貴鬼から事情を問い詰めてみた。
そして貴鬼からきいた真実に紫龍は絶句した。
なんと氷河がポセイドン神殿で戦ったアイザックという敵は師カミュのもと、共に修行を受けた兄弟子だったのだという。
そうなのだとしたら、彼はまたその手で………
「ごめん。」
ぽつりと落とされた氷河の言葉。
唐突な氷河の謝罪に思考にふけり、いつの間にか強く握っていた己の手を見て我に返った。
そして相変わらず伏目がちでどこを見ているのかわからない氷河の顔を覗き込んだ。
さらさらとした金の髪、透き通った青い目、真珠のような白い肌。
ロシア人の母親を持つ彼は同じ父親をもつ紫龍たちとは何処か違っていた。
故に幼い頃、城戸邸で共に聖闘士になるべく訓練を受けていたときから彼は異質な存在だった。
きっとその容姿のせいで苦労してきたことは数え切れないほどあるだろう。
実際、いざこざに巻き込まれている彼を何度も見たことがある。
その都度、負けじと歯を食いしばってやり返していた彼に尊敬の念を持っていた紫龍だった。
「どうして誤る?」
「俺はおまえに心配かけさせてる。だから……」
「いいよ、そんなことくらい。それより……いつまでこうしてるつもりなんだ。」
声のトーンを落としてまっすぐ氷河の顔を見て問う。
はじかれたように氷河の肩が揺れた。
「自虐行為なんて、聖闘士にあるまじき行為だぞ。」
痛いところをつかれたのだろう。
氷河の全身はわなわなと震えていた。
「おまえのその傷、慕っていた兄弟子から受けたものだそうだな。おまえのことだから、別れるのが惜しくてずっと傷抱えたままでいたかったんだろう。そうやってうじうじと感傷に浸って。そんなことでは聖闘士としてはこれからやっていけないぞ。過去のしがらみをたてない甘いおまえでは―――」
「うるさい!!!」
それまでおとなしく聞いていた氷河だったが、とうとう我慢しきれず紫龍の胸倉を掴み、射抜かんとばかりに睨みあげてきた。
その目にはうっすらと涙の膜が窺える。
そういえば、昔からよく泣くやつだった。
「聖闘士とか、もうたくさんなんだよ。強くあれとか、クールであれとか、俺は……俺はただ……」
とうとう堪えきれない涙が氷河の頬を伝った。
「……そばに……っ」
その瞬間、氷河の目が痛々しく歪んだ。
(生きて自分の傍にいて欲しかった)
そう心で慟哭する彼に紫龍は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
最愛の母を失い、誰よりも尊敬する師と友をその手でかけなくてはならなかった氷河。
毅然としていても心の中ではきっと始終泣いていたのだ。
どんなにそんな己をを呪ったかわからない。
「氷河―――――」
ふいに紫龍は氷河を自分の肩に抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
そうしたくてたまらなくなった。
拒絶されると思ったが、意外にも氷河はなすがままだった。
やがて堰を切ったように嗚咽をもらしだした。
氷河の涙が紫龍の肩を濡らしていく。
紫龍はその涙がひどく温かいと思った。
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